大塚製薬と慶應義塾大学が共同でシロシビン療法の社会実装を進める中、世界では先住民の知識搾取という深刻な問題が議論されています。本記事では、革新的な精神疾患治療法として注目されるシロシビンの医学的可能性と、その背景にある知的財産権や文化的植民地主義の問題、そして日本特有の「体験なき研究」という課題について紹介します。
シロシビンとは:革新的な精神疾患治療法の台頭

シロシビンは、マジックマッシュルームから抽出される化学物質で、セロトニン5-HT2A受容体に作用するサイケデリック物質の一つです。近年、うつ病や心的外傷後ストレス障害(PTSD)、不安症などの治療において画期的な効果を示すことが明らかになり、世界中の医療関係者から注目を集めています。
従来の抗うつ薬とは異なり、シロシビンは1-2回の投与で約6-12カ月間にわたって効果が持続するという特徴があります。この即効性と持続性は、長期間の服薬が必要な従来治療法と比べて、患者にとって大きなメリットとなる可能性があります。
現在、アメリカではブレークスルーセラピーの指定を受けた複数の製薬企業がフェーズ3試験を実施中であり、ヨーロッパでもフェーズ2試験が進行しています。日本でも大塚製薬と慶應義塾大学が共同研究契約を締結し、社会実装に向けた基盤整備が本格化しています。
知的財産権をめぐる深刻な倫理問題

マサテック族の文化的遺産の組織的搾取
シロシビンの商業化には、深刻な倫理的問題が潜んでいます。この化学物質の発見と普及は、1957年にLife誌で発表されたR・ゴードン・ワッソンの記事「Seeking the Magic Mushroom」に端を発しています。元J.P.モルガンの銀行家だったワッソンは、メキシコのオアハカ州ワウトラ・デ・ヒメネスでマサテック族の治癒師マリア・サビーナから神聖なベラーダ(儀式)について学び、その知識を世界に広めました。
しかし、この過程で重大な約束違反が発生しました。マリア・サビーナはワッソンに秘密保持と写真公開の禁止を約束させましたが、ワッソンは後に著書「Mushrooms, Russia and History」で彼女の実名と写真を公開し、約束を破りました。この裏切りの結果、マリア・サビーナは一時的に収監され、自宅を放火されるという深刻な被害を受けました。
即座に始まった商業的搾取
ワッソンの記事発表からわずか2年後の1959年、スイスの製薬会社サンドス(現ノバルティス)のアルバート・ホフマンがシロシビンとシロシンの分離・合成に成功しました。サンドスは直ちに抽出法と「治療的精神安定法」の特許を取得し、「インドサイビン」という商品名で販売を開始しました。これは、先住民の伝統的知識が即座に企業利益に転換された象徴的な事例です。
巨大な市場と完全に排除される先住民
現在、シロシビンに関する特許は24件以上が登録されており、その市場規模は想像を絶するものです。2020年10月時点で、シロシビンによるうつ病治療を開発する製薬会社の一社だけで約15億ドル(約2,200億円)の市場価値を持っています。世界保健機関(WHO)によると、世界中で2億6,400万人がうつ病に苦しんでおり、アメリカだけでもうつ病治療市場は2,000億ドル規模に達する可能性があります。
特許による知識の囲い込み
論文に掲載された特許一覧を見ると、その範囲の広さに驚かされます。Compass Pathwaysによるシロシビンの結晶形態に関する特許、Yale大学と米国退役軍人省による併用療法の特許、Paul Stametsによるシロシビンとナイアシンの組み合わせに関する特許など、治療法の様々な側面が企業によって独占されています。
これらの特許で莫大な利益を得ているのは、主に北米とヨーロッパの企業・研究機関です。しかし、何世紀にもわたってこの知識を守り続け、ワッソンに教えを授けたマサテック族をはじめとする先住民コミュニティは、一切の利益を得ていません。むしろ、現在でも研究者たちが適切な許可や説明なしにマサテック族の土地を訪れ、調査を続けているという搾取的状況が継続しています。
国際条約との深刻な矛盾
皮肉なことに、ワッソンの記事が発表された1957年5月13日からわずか3週間後の6月5日、国際労働機関は「先住民・部族民条約第107号」を採択しました。しかし、この条約は遡及適用できないため、既に始まっていたシロシビンの商業化を止めることはできませんでした。
その後、国際社会は先住民の権利保護を強化してきました。1992年の国連生物多様性条約は「伝統的な生活様式に関連する先住民および地域コミュニティの知識、革新、慣行を尊重し、保全し、維持する」ことを締約国に義務付けました。2003年のユネスコ無形文化遺産保護条約、2007年の国連先住民権利宣言も、先住民の文化的・精神的財産に対する権利を明確に規定しています。
しかし、これらの条約にもかかわらず、シロシビン関連の特許を持つ企業は、マサテック族との間で「正当で相互的な合意」を一切結んでいません。これは明らかに国際法の精神に反する状況です。
日本における社会実装の現状と課題

急速に進む制度整備
日本では、大塚製薬と慶應義塾大学の共同研究により、精神展開剤の社会実装に向けた包括的な取り組みが開始されています。主な課題として以下が挙げられています。
- 最適な臨床試験の設計開発:治療効果を最大化するための科学的根拠の確立
- 専門家育成システムの構築:精神科医や心理士の専門的トレーニングプログラムの開発
- 法的・倫理的課題への対応:薬事規制や安全性確保のためのガイドライン策定
- 社会的偏見の是正:サイケデリックに対する誤解を解くための公的啓発活動
見落とされている重要な視点
しかし、これらの取り組みには重要な観点が欠落しています。それは、この治療法の文化的・精神的な側面と、その知識の真の起源に対する敬意と配慮です。
「魂なき治療」への警鐘
「体験なき研究者」という世界的に稀な状況
日本のサイケデリック研究には、世界でも類を見ない問題があります。それは「サイケデリック体験なき研究者たちが治験を行う」という状況です。これは一度も海に入ったことのない海洋学者が海洋研究を行うようなもので、医学的に正確な結果を出せても、意識変容の本質的理解には到達できません。
欧米の研究者の多くは自らサイケデリック体験を持つか、体験者との深い対話を通じて研究を進めています。しかし日本では、研究者が純粋に「外部観察者」として研究を行おうとする傾向が強く見られます。
「精神展開剤」という言葉の回避が示すもの
日本では「サイケデリック」を避け、「精神展開剤」という無味乾燥な医学用語を使用しています。これは20世紀後半のカウンターカルチャーとしてのスティグマを回避する意図が見て取れますが、同時に本質的理解からの逃避を象徴しています。
サイケデリックという言葉には、単なる薬物以上の文化的・精神的意味が込められており、それを排除することで重要な何かを見失っている可能性があります。
真に倫理的な社会実装に向けて

日本がサイケデリック治療の社会実装を進める上で、以下の転換が必要と言えるでしょう。
- 文化的起源への敬意:マサテック族をはじめとする先住民コミュニティへの適切な謝辞と利益還元の検討
- 研究者の体験的理解:意識変容の本質を理解するための、より深いアプローチ
- 全人的治療の導入:技術的側面だけでなく、精神的・文化的側面を含む包括的モデル
- 国際倫理基準の遵守:先住民権利に関する国際条約や倫理ガイドラインの適用
まとめ:日本は本当にサイケデリック・ルネッサンスに追いつけるのか
現在の日本のアプローチには深刻な懸念があります。日本が陥りがちな「表面だけを取り入れ、魂の部分を置き去りにする」パターンが、サイケデリック治療においても繰り返される危険性があります。
世界的なサイケデリック・ルネッサンスは、単なる医学的発見の再評価ではなく、意識・精神性・治癒に対する根本的なパラダイムシフトです。日本が表面的な技術導入にとどまれば、真のルネッサンスから取り残される可能性があります。
この新しい治療法を単なる技術革新として捉えるのではなく、人間の尊厳と文化的多様性を尊重する新しい医療パラダイムを創造できるかどうか。それが日本の真価を問う試金石となるでしょう。
Gerber, K., García Flores, I., Ruiz, A. C., Ali, I., Ginsberg, N. L., & Schenberg, E. E. (2021). Ethical concerns about psilocybin intellectual property. ACS Pharmacology & Translational Science, 4(2), 573-577. https://doi.org/10.1021/acsptsci.0c00171
大塚製薬株式会社. (2024, May 7). 学校法人慶應義塾と共同研究契約を締結‐精神展開剤の社会実装に向けた基盤整備のための産学連携. Retrieved from https://www.otsuka.co.jp/company/newsreleases/
本記事は情報提供のみを目的としており、医療アドバイスではありません。
精神的・身体的な問題を抱えている方は、必ず医療専門家にご相談ください。
また、日本国内でのサイケデリック物質の所持・使用は法律で禁止されています。