2023年6月、デンバーで開催されたPsychedelicScience 2023において、パレスチナの平和活動家サミ・アワドとイスラエルの研究者レオール・ローズマンが、画期的な研究結果を発表しました。本記事では、この講演内容をもとに、2022年春に実施されたパレスチナ・イスラエル間でのアヤワスカを用いた平和構築プログラムの成果について紹介します。
講演の背景:対立を超えた集合的治癒への挑戦

今回紹介する研究は、パレスチナ人平和活動家のサミ・アワド氏、イスラエル人治療師のアルメル・リーマン氏、ブラジル人シャーマンのインディオス・ブラジル氏が共同で実施した平和構築プログラムです。エクセター大学の研究者レオール・ローズマン氏が科学的な検証を担当し、現在はRIPPLESアライアンスという非営利団体を通じて活動を継続しています。
このプログラムの目的は、アヤワスカの治癒空間を通じて集合的な意図を探求し、変革的な精神実践を紛争と抑圧の政治的現実に根ざすことでした。参加者たちは集合的トラウマの治癒、固定化した物語からの解放、洞察を行動へと変換すること、そして連帯とケアのコミュニティ創造を目指しました。
集合的トラウマが個人と社会に与える深刻な影響
これまでサイケデリック療法といえば、うつ病やPTSDなど個人の心の問題を治療する手法として研究されてきました。ところが今回の発表では、この治療法が個人の枠を超えて「集合的トラウマ」の治癒にも役立つことがわかりました。長年続く紛争や社会的な抑圧によって生まれた、コミュニティ全体が抱える心の傷に対して、シロシビンをはじめとするサイケデリック物質を使った治療が有効だというのです。
集合的トラウマとは、ある集団や民族全体が共有している心理的な傷のことです。この傷は親から子へ、そしてその子から孫へと世代を越えて受け継がれ、一人ひとりの行動や社会のあり方に深刻な影響を与え続けています。これまでの心理療法では、これほど大きく複雑なトラウマに立ち向かう手段がほとんどありませんでした。
集合的トラウマとは何か:個人を超えた心の傷

親から子へ受け継がれる心の傷
集合的トラウマは、戦争や虐殺、強制的な移住、植民地支配といった大規模な暴力や抑圧から生まれる心の傷です。この傷は、直接被害を受けた人だけでなく、その子どもや孫の世代にまで影響することが研究でわかっています。遺伝子レベルでの影響に加えて、家族内で語り継がれる記憶や文化的な物語を通じて、トラウマは何世代にもわたって引き継がれていくのです。
たとえば、ホロコーストを生き延びた人の子どもたちには、自分自身は直接体験していないのに、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に似た症状が現れることが知られています。植民地支配や民族の迫害を経験したコミュニティでも、同じようにトラウマが何世代も続いていることが確認されています。
社会全体に広がるトラウマの影響
集合的トラウマは、個人の心の健康だけでなく、社会の仕組みや政治的な判断にも深刻な影響を与えます。トラウマを抱えた集団では、恐怖心や他者への不信が蔓延し、異なる集団との対立がどんどん激しくなる傾向があります。被害者としての意識や復讐したいという気持ちが政治的な決定に影響を与えて、平和を築くことを困難にしてしまうのです。
こうした状況では、一人ひとりに焦点を当てる従来の心理療法だけでは限界があります。集団レベルでの治癒が必要であり、ここにサイケデリック療法の新しい可能性が見えてきました。
サイケデリック療法の基本的な仕組み

シロシビンなどの物質が脳に与える変化
サイケデリック療法で使われる主な物質には、シロシビン、LSD、DMT、そしてアヤワスカに含まれるDMTなどがあります。これらの物質は脳の柔軟性を高めて、いつもの考え方や感情の処理パターンを一時的に変えてくれます。特にシロシビンは、脳の「デフォルトモードネットワーク」という部分の働きを抑えることで、自分と他者の境界線を曖昧にし、新しい視点や気づきを促してくれるのです。
この脳科学的な仕組みによって、参加者は普段はアクセスできない記憶や感情に触れることができ、トラウマの根っこにある問題と向き合うことが可能になります。また、他の人との境界が曖昧になることで共感する力が高まり、敵対していた集団同士でも理解し合える可能性が生まれます。
治療環境の重要性
サイケデリック療法の効果は、物質そのものだけでなく、治療が行われる環境や背景(「セットとセッティング」と呼ばれます)に大きく左右されます。しっかりと訓練を受けた治療者がいること、安全で支えられている環境があること、そして明確な治療の目的があることが成功のカギとなります。
集合的トラウマの治療では、これらの要素がさらに重要になってきます。対立している集団の参加者が安心して体験を分かち合える場所を作ること、文化的な背景をよく理解している治療者がいること、そして集団での治癒を促すための特別な準備が欠かせません。
講演で報告された実践事例:パレスチナ・イスラエル研究

研究プログラムの背景と狙い
講演で紹介されたパレスチナ・イスラエル紛争地域での研究は、数十年続く対立によって生まれた集合的トラウマの治癒を目指して、アヤワスカを用いた合同セッションを実施するという前例のない試みでした。この研究の画期的な点は、敵対する両民族の参加者が同じ空間で治療体験を共有したことです。
研究の主な目的は、個人レベルでのトラウマ治癒にとどまらず、集団としての和解と相互理解を促進することでした。参加者は政治活動家、宗教指導者、芸術家、治療者など多様な背景を持つ人々で構成され、西岸地区、エルサレム、イスラエル国内から幅広く募集されました。
実際のセッションの進み方
アワド氏の講演によると、治療プログラムは8日間にわたって行われ、前半の4日間では過去のトラウマの理解と治癒に取り組み、後半の4日間では未来への共同ビジョンづくりに重点を置きました。参加者は事前に詳しい「スピリチュアル質問票」に答え、自分の恐れや不安、家族の歴史、精神的な信念について深く掘り下げていきました。
アヤワスカセッション中、参加者は個人的なトラウマだけでなく、先祖の記憶や集合的な痛みにもアクセスしました。ユダヤ系参加者の多くはホロコーストの記憶を体験し、パレスチナ系参加者はナクバ(1948年の大災害)や占領の痛みを再体験したとのことです。興味深いことに、これらの体験は個別に起こるのではなく、参加者同士が共鳴し合って、集団での治癒プロセスが生まれたそうです。
参加者に起こった変化
講演で報告された変化は非常に印象的でした。あるイスラエル人参加者は、これまで政治的な活動から距離を置いていたのに、パレスチナ人の痛みを直接体験することで「正義」という概念を再発見し、社会的な行動への意欲を取り戻したとのことです。一方、パレスチナ人参加者の中には、イスラエル人への憎悪や復讐願望が、理解と同情に変わった例も報告されています。
特に印象的だったのは、セッション中に起こった「マットレス事件」だったとのこと。イスラエル人参加者が間違ってパレスチナ人参加者のマットレスに触れたとき、最初は激しい怒りが爆発しました。しかし最終的に両者とも「マットレスは誰のものでもない」という深い洞察に到達したのです。この体験は、土地をめぐる紛争の根本問題に新しい視点をもたらしたと語ります。
集合的治癒が社会にもたらす意味

個人の変化が社会に広がる効果
講演で報告されたサイケデリック療法による集合的トラウマの治癒は、個人レベルの変化を超えて社会全体に広がっていく効果をもたらしています。研究参加者の多くが、体験後に職業や生活スタイルを変え、より建設的で平和を重視する活動に取り組むようになったそうです。また、異なる集団出身の参加者同士で継続的な関係が築かれ、小さいながらも協力的なコミュニティが形成されました。
ローズマン氏は、このような変化を「リップル効果」として説明しています。治療体験から得られた洞察や変化が、参加者の日常生活を通じて周りに波のように広がっていくプロセスのことです。家族、友人、同僚、そしてより広いコミュニティに対して、平和と理解のメッセージが伝わっていく可能性があります。
平和づくりへの新しいアプローチ
これまでの平和構築では、政治的な合意や経済的なメリットに頼ることが多く、根深い心理的・感情的な対立には十分な効果を示せませんでした。講演で紹介されたサイケデリック療法による集合的トラウマの治癒は、こうした表面的なアプローチを補う、より深いレベルでの和解の可能性を示しています。
この新しいアプローチの特徴は、対立している集団が共通の人間性を再発見し、お互いの痛みと苦しみを理解することで、本当の共感と許しが生まれる点にあります。政治的な立場や歴史的な恨みを超えて、人間としての根本的なつながりが回復されることで、持続可能な平和の基盤が築かれる可能性があるのです。
サイケデリック療法の課題と今後の方向性

実施における困難と倫理的な配慮
講演では、集合的トラウマの治癒におけるサイケデリック療法の実践には重要な課題があることも述べられました。まず、多くの国でサイケデリック物質が規制されているため、研究や治療を行うには特別な許可が必要です。また、敵対している集団を同じ空間に集めることには安全上のリスクが伴い、参加者の身体的・心理的な安全を守るための厳格な手順が欠かせません。
さらに、文化的・宗教的な背景の違いを尊重しながら治療を進めることも大きな課題です。特定の宗教や文化では、サイケデリック物質の使用が禁じられている場合があり、参加者の信念と治療目標のバランスを取ることが重要な問題となります。
研究の今後の発展
現在の研究は限られた規模で行われていますが、その結果は非常に希望的です。今後は、より大規模な研究の実施、長期的な効果の追跡、そして他の紛争地域への応用が期待されます。また、アヤワスカ以外のシロシビンなどの他のサイケデリック物質を用いた比較研究も重要になってくるでしょう。
技術面では、脳の画像診断技術を使った神経科学的なメカニズムの解明、バーチャルリアリティとの組み合わせによる治療環境の向上、そして人工知能を活用した個人に合わせた治療プログラムの開発などが期待されています。
まとめ:集合的トラウマ治癒におけるサイケデリック療法の可能性
今回紹介したサミ・アワド氏とレオール・ローズマン氏の講演内容は、サイケデリック療法による集合的トラウマの治癒が、従来の心理療法や平和構築では到達できなかった深いレベルでの変化を可能にする革新的な治療法であることを示しています。パレスチナ・イスラエル研究で報告された結果は、長年の対立や憎悪を超えた真の和解が実現できることを示唆しているのです。
この治療法の最も重要な意義は、個人の治癒と社会の平和が密接に関連していることを実証し、トラウマの世代間継承を断ち切る可能性を示したことです。シロシビンやアヤワスカなどのサイケデリック物質は、単なる治療薬を超えて、人類の意識の進化と平和な社会の実現に貢献する可能性を秘めているといえるでしょう。
ただし、この分野の発展には慎重で責任ある研究が必要です。適切な安全対策、倫理的な配慮、そして文化的な感受性を保ちながら、より多くの研究と実践を積み重ねることで、サイケデリック療法は集合的トラウマに苦しむ世界中のコミュニティに希望をもたらすことができるでしょう。現在、RIPPLESアライアンスを通じて継続されているこの取り組みの今後の発展に注目していきたいと思います。
Ripples. (2023, October 19). Sami Awad & Leor Roseman: ayahuasca as a peace-making tool among Palestinians and Israelis.PS23-MAPS [Video]. YouTube. https://www.youtube.com/watch?v=bynaa_UpLSU
本記事は情報提供のみを目的としており、医療アドバイスではありません。
精神的・身体的な問題を抱えている方は、必ず医療専門家にご相談ください。
また、日本国内でのサイケデリック物質の所持・使用は法律で禁止されています。