製薬大手AbbVieが最大12億ドルで買収したBretisilocinは、第2相試験で94%という驚異的な寛解率を達成しましたが、これを真の「サイケデリック療法」と呼ぶべきかには疑問が残ります。本記事では、Bretisilocinの科学的成果と、伝統的なサイケデリック療法との根本的違いについて詳しく紹介します。
Bretisilocinの94%寛解率:画期的成果の裏側

Gilgamesh Pharmaceuticalsが開発したbretisilocin(GM-2505)は、第2a相無作為化二重盲検試験において、大うつ病性障害患者40名を対象とした臨床試験で驚異的な結果を達成しました。ClinicalTrials.gov(NCT06236880)に登録されたこの試験は、イギリスのマンチェスターで実施されました。
試験では、患者が1日目に10mgまたは1mg(低用量精神活性対照)を静脈内投与され、15日目に全患者が15mgの追加投与を受けました。Montgomery-Åsberg Depression Rating Scale(MADRS)による評価では、14日目で10mg投与群がベースラインから-21.6ポイント改善し、対照群の-12.1ポイントと比較して統計的に有意な差(p=0.003)を示しました。
最も注目すべきは29日目の結果です。94%の患者が寛解(MADRSスコア≤10)を達成し、追加治療なしに74日目まで効果が持続しました。投与後24時間という早期から-18.5ポイントの改善が観察され、従来の抗うつ薬が効果を示すまでに4〜8週間を要することと比較して、画期的な速効性を示しています。
厳格な試験設計が証明する科学的信頼性

この試験の信頼性は、厳格な患者選択基準と科学的プロトコルによって保証されています。参加者は18歳から65歳までの男女で、DSM-5の大うつ病性障害診断基準を満たし、MADRS-SIGMAスコアが22を超える中等度から重度の症状を有する患者のみが対象とされました。
安全性を確保するため、精神病性障害、双極性障害、PTSD、境界性人格障害の既往がある患者は除外され、一等親族に統合失調症や双極性障害の病歴がある場合も対象外とされました。さらに、過去6週間以内のSSRIやSNRI使用者、過去5週間以内のMAO阻害薬使用者も除外され、薬物相互作用のリスクを最小限に抑える設計となっています。
四重盲検法(患者、医療提供者、研究者、アウトカム評価者すべてが薬物割り当てを知らない)を採用することで、プラセボ効果や研究者バイアスを排除し、bretisilocinの真の治療効果を客観的に評価することが可能になりました。
AbbVieによる12億ドル買収が示す製薬業界の本気度

AbbVieによるbretisilocin プログラムの買収は、サイケデリック領域への製薬業界の本格参入を象徴する出来事です。この取引は前払い金と開発マイルストーンを含む最大12億ドルの規模で行われ、AbbVieがGilgamesh全体を買収するのではなく、bretisilocinプログラムのみを取得する戦略的な判断が注目されます。
ハーバード医科大学のMaurizio Fava博士は、「この第2a相試験のデータは印象的であり、特に大きく持続的な寛解率が注目される。真の精神活性対照を使用したこの研究における堅実な効果サイズは説得力がある」と評価しています。
イェール大学のGerard Sanacora博士は、「MADRSスコア減少を通じて観察された症状改善の規模は真に印象的である。この治療はエスケタミンによって確立された2時間のクリニック内フレームワークに適合している」と述べ、実用性の面での画期的な意義を指摘しています。
業界アナリストは、この取引を「興味深い戦略」と評価しており、bretisilocinの競争力のある臨床プロファイルの可能性を認めつつも、大うつ病性障害の薬物開発におけるリスクの高い性質も指摘しています。
これは本当に「サイケデリック療法」なのか?

bretisilocinの成功は確かに医学的に画期的ですが、これを従来の「サイケデリック療法」と同じものとして扱うべきかには重要な疑問があります。
伝統的なサイケデリック療法の特徴
シロシビンやLSDを用いた伝統的なサイケデリック療法は、単なる薬物投与を超えた包括的(ホリスティック)なアプローチを特徴としています。
具体的には、患者の心理的準備(セット)と治療環境(セッティング)が治療効果に決定的な影響を与えるとされ、数週間にわたる事前準備が行われます。実際の治療セッションは通常6〜8時間の深い意識変容体験を通じて根本的な心理的変化を促し、薬物体験前後の継続的な心理療法により体験を日常生活に統合することが重視されています。
また、多くの患者が報告する神秘的・宗教的体験が治療効果の重要な要素とされ、症状の軽減だけでなく人生観や価値観の根本的な変化を目指すホリスティックなアプローチが採用されています。
bretisilocinの医療モデル化
一方、bretisilocinは従来の医療モデルに適合するよう設計されています。Johnson & Johnsonのエスケタミン(Spravato)と同様の2時間という短時間治療フレームワークを採用し、個別化されたセットとセッティングよりも標準的な医療環境での投与を重視しています。
評価方法もMADRSスコアの改善など測定可能な症状軽減に焦点を当てたアウトカム評価が採用されており、製薬会社による大量生産と医療保険適用を前提とした事業モデルで開発が進められています。
製薬企業による商業化への警鐘

bretisilocinの成功は確かに多くのうつ病患者にとって希望となりますが、サイケデリック医学の商業化には慎重な検討が必要だと思われます。
本質的な治療体験の単純化
伝統的なサイケデリック療法の支持者からは、bretisilocinのようなアプローチが「薬物体験の本質を見逃している」との批判があります。ジョンズ・ホプキンス大学やインペリアル・カレッジ・ロンドンなどの研究機関で行われているシロシビン研究では、患者の主観的体験の質と治療効果に強い相関関係が見出されています。
2時間という短時間セッションでは、従来のサイケデリック療法で重要とされる深い内省の時間が失われる可能性があります。長時間の体験により得られる自己洞察の機会、抑圧された感情やトラウマとの対話といった感情的なプロセシング、死生観や人生の意味に関する根本的な再考を含む存在論的な気づき、そして体験を日常生活に組み込むための統合のプロセスなどが十分に行われない懸念があります。
アクセスの民主化 vs. 体験の希薄化
確かに、bretisilocinの2時間フレームワークは、より多くの患者がサイケデリック系治療にアクセスできる可能性を提供します。しかし同時に、サイケデリック体験の「効率化」が、その根本的な治癒力を損なう可能性も指摘されています。
Underground Therapists Allianceなどの組織は、「製薬会社による標準化されたアプローチは、個々の患者のニーズに応じた柔軟な治療を困難にする」と警告しています。また、利益追求が治療の質よりも優先される可能性についても懸念が表明されています。
科学的進歩と治療哲学のバランス

bretisilocinの成功は、精神医学における重要な科学的進歩であることは間違いありません。94%という寛解率は、治療抵抗性うつ病に苦しむ患者にとって大きな希望となります。
しかし同時に、我々は重要な問いかけを続ける必要があります。
治療の定義について、症状の軽減だけでなく人間の全体的な幸福を追求すべきではないでしょうか。体験の価値においても、測定可能な指標だけでなく主観的体験の質も重視すべきです。アクセスの公平性の観点から、商業化により経済的に恵まれた患者のみが治療を受けられる状況は避けるべきですし、治療者の役割も薬物投与技術者ではなく患者の内的プロセスを支援する存在であるべきです。
まとめ:bretisilocinが提起するサイケデリック医学の未来
bretisilocinの94%寛解率は、うつ病治療における画期的な成果であり、AbbVieによる12億ドルの投資は、この分野への産業界の本格的な参入を象徴しています。短い半減期と2時間のクリニック内フレームワークは、実用的な医療環境でのサイケデリック系治療実施を現実的なものにしています。
しかし、bretisilocinを従来の「サイケデリック療法」と同一視することには慎重であるべきです。シロシビンを用いた伝統的なアプローチが重視するホリスティックな治療体験と、製薬会社による標準化されたアプローチには根本的な違いがあります。
今後のサイケデリック医学の発展においては、科学的厳密性と商業的実用性を追求しつつも、患者の全体的な幸福と治療体験の質を軽視してはなりません。bretisilocinのような革新的な薬物が、症状改善だけでなく、人間の根本的な治癒と成長を支援する真の治療法となるよう、継続的な議論と研究が必要でしょう。
製薬業界の参入により、より多くの患者がサイケデリック系治療にアクセスできる可能性が広がる一方で、治療の本質が商業化により損なわれることがないよう、医療従事者、研究者、そして社会全体での注意深い監視が求められています。
ABBVIE to acquire Gilgamesh Pharmaceuticals’ Bretisilocin, a novel, investigational therapy for major depressive disorder, expanding psychiatry pipeline. (2025, August 25). AbbVie News Center. https://news.abbvie.com/2025-08-25-AbbVie-to-Acquire-Gilgamesh-Pharmaceuticals-Bretisilocin,-a-Novel,-Investigational-Therapy-for-Major-Depressive-Disorder,-Expanding-Psychiatry-Pipeline
ClinicalTrials.gov. (n.d.). https://clinicaltrials.gov/study/NCT06236880
Gilgamesh Pharmaceuticals. (2025, May 27). Gilgamesh Pharmaceuticals announces positive topline Phase 2a results for GM-2505 in major depressive disorder (MDD). PR Newswire. https://www.prnewswire.com/news-releases/gilgamesh-pharmaceuticals-announces-positive-topline-phase-2a-results-for-gm-2505-in-major-depressive-disorder-mdd-302465404.html?tc=eml_cleartime
本記事は情報提供のみを目的としており、医療アドバイスではありません。
精神的・身体的な問題を抱えている方は、必ず医療専門家にご相談ください。
また、日本国内でのサイケデリック物質の所持・使用は法律で禁止されています。