大塚製薬のシロシビン戦略が示す未来|世界のサイケデリック療法最前線

大塚製薬のシロシビン戦略 ビジネス

日本の大手製薬企業・大塚製薬が精神医療分野で革新的な動きを見せています。2023年のマインドセット社買収と2025年の慶應義塾大学との提携により、シロシビンを中心としたサイケデリック療法の国内展開基盤を着実に構築しているのです。世界的に注目が高まるサイケデリック医療市場において、大塚製薬の戦略と世界の製薬メーカーの動向について詳しく解説します。

大塚製薬の戦略的判断:精神医療の次世代治療法へ参入

大塚製薬

大塚製薬は精神神経疾患領域を重点治療分野として位置づけており、これまでに抗精神病薬「レキサルティ」などの開発で実績を積んできました。同社のシロシビン分野への本格参入は、従来の精神医療の限界を打破する新たな治療選択肢の提供を目指した戦略的な決断といえます。

精神疾患の治療において、既存の薬物療法では十分な効果が得られない患者が多数存在しています。特に治療抵抗性うつ病やPTSDなどの難治性疾患では、従来のSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)による治療で改善が見られない患者が40〜60%に上るとされています。このような医療ニーズの高い分野において、サイケデリック療法は画期的な治療選択肢として期待されているのです。

大塚製薬の参入タイミングは、世界的なサイケデリック医療の規制緩和とファンディング拡大の流れと合致しています。米国では複数の州でシロシビンの医療利用が承認され、FDA(米国食品医薬品局)もブレークスルーセラピー指定を通じて開発を後押ししています。

マインドセット社買収で獲得した次世代技術

マインドセット社買収で獲得した次世代技術

2023年9月1日、大塚製薬は精神神経疾患領域の強化を目的として、カナダのマインドセット社(Mindset Pharma, Inc.)を買収しました。この買収は、大塚製薬のサイケデリック療法への本格参入を象徴する重要な出来事です。

マインドセット社の最大の特徴は、「ファミリー6」と呼ばれる革新的な化合物の開発にあります。「MSP-1014」と呼ばれるこの化合物は従来のシロシビンとは異なり、幻覚作用を大幅に抑制した次世代のサイケデリック薬剤として注目されています。シロシビンや5-MeO-DMTよりも強力な5-HT2Aアゴニストでありながら、幻覚作用の主要な指標である頭部単収縮反応をほとんど引き起こさないとされています。

幻覚作用の軽減は、サイケデリック療法の実用化において極めて重要な要素です。従来のサイケデリック治療では、幻覚体験による患者の心理的負担や、治療環境の特殊性が普及の障害となっていました。ファミリー6の技術により、より多くの患者が負担なく治療を受けられる可能性が広がっています。

マインドセット社

一方で、サイケデリック療法の本質的な価値は、幻覚体験そのものと体験後の統合セッションにあることも重要な観点です。従来の「投薬して治す」というアプローチとは一線を画し、意識変容体験を通じた内的洞察と、その後の心理的統合プロセスが治療効果の核心となっています。ファミリー6のような非幻覚性化合物の開発は、より多くの患者への適用可能性を高める一方で、サイケデリック療法の根本的な治療メカニズムについても新たな理解を促進することが期待されます。

大塚製薬は買収以前から、2022年に500万米ドルの投資を通じてマインドセット社の開発を支援していました。これは同社が早い段階からサイケデリック療法の潜在性を認識し、戦略的に投資を行ってきたことを示しています。

慶應義塾大学との提携:日本における社会実装基盤の構築

大塚製薬と慶應義塾大学との提携

2025年5月7日、大塚製薬は学校法人慶應義塾と精神展開剤(サイケデリック)の社会実装に向けた基盤整備のための共同基礎研究契約を締結しました。この提携は、海外で開発が進むサイケデリック療法を日本の患者に安全かつ適切に届けるための重要な取り組みです。

日本が直面する課題と解決策

内田裕之教授

日本では、精神展開剤の臨床試験がほとんど実施されておらず、慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室の内田裕之教授を中心とした小規模な特定臨床研究に留まっているのが現状です。一方、米国では複数の製薬企業がフェーズ3試験を実施中であり、欧州でもフェーズ2試験が進行しています。

大塚製薬と慶應義塾大学の共同研究では、以下の開発項目に取り組むとしています。

  • 精神展開剤の開発方針の検討:日本の規制環境に適した開発戦略の策定
  • 治療マニュアルとガイドラインの策定:安全で効果的な治療プロトコルの確立
  • 専門家育成プログラムの開発:サイケデリック療法に精通した医療従事者の養成
  • 法的・倫理的課題への対応:規制当局との協議と承認申請準備
  • 広報活動と公共啓発の展開:社会的理解と受容の促進
  • 企業連携と知的財産戦略の推進:産業界全体での開発推進

この包括的なアプローチにより、日本におけるサイケデリック療法の導入が円滑に進むことが期待されます。

世界の製薬メーカーによるサイケデリック療法開発競争

世界の製薬メーカーによるサイケデリック療法開発競争

Lykos Therapeuticsの挫折と教訓

Lykos Therapeutics

MDMA(メチレンジオキシメタンフェタミン)を用いたPTSD治療薬の開発で先駆的な役割を果たしてきたLykos Therapeuticsは、2024年に大きな挫折を経験しました。同社の「ミドマフェタミン」(MDMA)カプセルは、心理的介入と組み合わせたMDMA支援療法として、25年ぶりとなるPTSD治療薬の候補として期待されていました。

同社は2つのフェーズ3試験(MAPP1、MAPP2)で有望な結果を示し、FDA から優先審査の指定を受けていました。しかし、2024年6月のFDA諮問委員会では、10対1という圧倒的多数で承認に反対する結果となりました。委員会は、MDMAの有効性に関するデータが不十分であり、厳格なリスク評価・軽減戦略があっても利益がリスクを上回らないと判断しました。

その後、2024年8月にFDAは正式に承認を拒否し、追加のフェーズ3試験を要求しました。この決定により、Lykos Therapeuticsは従業員の75%を削減する大規模なリストラを実施し、臨床開発とFDAとの協議に集中する体制へと転換しました。

この事例は、サイケデリック療法の承認において、従来の医薬品開発とは異なる特殊な課題が存在することを浮き彫りにしました。MDMAのような精神作用物質では、プラセボ対照試験における盲検性の維持が困難であり、また乱用可能性や長期的な安全性に関する懸念も承認の障壁となっています。

Compass Pathwaysの着実な前進

Compass Pathways

英国を拠点とするCompass Pathwaysは、治療抵抗性うつ病(TRD)を対象としたシロシビン治療薬「COMP360」の開発で着実な成果を上げています。同社は世界最大規模のシロシビン臨床試験を実施し、その成果が権威ある医学誌『New England Journal of Medicine』に掲載されるなど、学術的にも高い評価を得ています。

COMP360の特徴は、高純度の合成シロシビンを用いることで品質と安全性を確保している点にあります。フェーズ2b試験では、233人の患者を対象とした大規模な多国間研究を実施し、25mgの単回投与で統計学的に有意なうつ症状の改善を確認しました。特に注目すべきは、治療効果が投与後3週間で現れ、最大12週間持続したことです。

現在実施中のフェーズ3試験(COMP005)では、2025年6月末に主要評価項目における有効性を発表し、業界関係者から注目を集めています。同社はFDAからブレークスルーセラピー指定を受けており、英国でもILAP(革新的ライセンシング・アクセス経路)指定を獲得しています。

その他の注目企業の動向

サイケデリック療法市場では、大塚製薬、Lykos Therapeutics、Compass Pathways以外にも多数の企業が参入しています。

ATAI Life Sciencesは、複数のサイケデリック化合物を同時並行で開発するプラットフォーム企業として、2021年に2億ドルを調達してNASDAQに上場しました。同社は投資家のピーター・ティール氏の支援を受けており、停滞する精神医療の革新を目指しています。

MindMedは、LSD由来の治療薬「MM120」(リセルガイド酒石酸塩)でFDAのブレークスルーセラピー指定を獲得し、フェーズ2b試験で良好な結果を示しています。

Reunion Neuroscienceは、Novo Nordisk が支援するベンチャー企業で、産後うつ病を対象としたシロシビン誘導体治療薬「RE104」の開発で1億300万ドルのシリーズA資金調達を完了しました。

これらの企業群により、サイケデリック療法市場は急速に拡大しており、2027年までに数十億ドル規模の市場形成が予想されています。

サイケデリック療法の科学的基盤と治療メカニズム

サイケデリック療法の科学的基盤と治療メカニズム

5-HT2A受容体への作用機序

シロシビンをはじめとするサイケデリック物質は、主に脳内の5-HT2A セロトニン受容体に作用します。この受容体は大脳皮質に広く分布しており、認知、感情、知覚の調節に重要な役割を果たしています。

従来のSSRI系抗うつ薬がセロトニンの再取り込みを阻害することで効果を発揮するのに対し、シロシビンは5-HT2A受容体を直接刺激することで、神経可塑性の向上と新たな神経結合の形成を促進します。この作用により、うつ病やPTSDの原因とされる固定化された負の思考パターンの打破が可能になると考えられています。

最近の神経科学研究では、シロシビンが脳内の異なる領域間の神経結合を著しく変化させることが明らかになっています。特に、空間、時間、自己認識に関与する脳領域での変化が顕著であり、この神経可塑性の増大が治療効果の基盤となっています。

従来治療法との相違点

サイケデリック療法の最大の特徴は、単回または少数回の投与で長期間の治療効果が得られることです。従来のSSRI治療では、薬効を維持するために数か月から数年間の継続服用が必要でしたが、シロシビン治療では数回の投与で数か月間の効果持続が報告されています。

また、従来の薬物療法では改善困難とされていた治療抵抗性うつ病患者においても、シロシビン治療で有意な改善が確認されています。これは、既存の治療選択肢に限界を感じていた患者と医療従事者にとって画期的な進歩といえます。

規制環境の変化と承認への道筋

オレゴン州のシロシビンセンター

米国における規制緩和の動き

米国では、オレゴン州とコロラド州がシロシビンの医療利用を合法化するなど、州レベルでの規制緩和が進んでいます。連邦レベルでも、FDAが複数のサイケデリック治療薬にブレークスルーセラピー指定を与えており、開発促進の姿勢を示しています。

現在、シロシビンはスケジュールI薬物に分類されており、医療利用が厳しく制限されています。しかし、FDA承認を受けた医薬品については、DEA(麻薬取締局)による再分類が行われ、処方薬としての利用が可能になります。

日本における規制の現状と課題

日本では、シロシビンは麻薬及び向精神薬取締法により規制されており、研究目的での使用も限定的です。しかし、医薬品としての有効性と安全性が確立されれば、他の規制薬物と同様に医療用医薬品としての承認が可能です。

先述した、大塚製薬と慶應義塾大学の共同研究は、日本における承認申請に向けた重要な準備段階として位置づけられます。特に、日本特有の文化的・社会的背景を考慮した治療プロトコルの開発と、医療従事者の教育体制の整備が急務とされています。

まとめ:大塚製薬のシロシビン戦略が切り拓く精神医療の未来

大塚製薬のシロシビン分野への参入は、日本の精神医療における画期的な転換点となる可能性を秘めています。マインドセット社の買収により獲得した次世代技術と、慶應義塾大学との産学連携による社会実装基盤の構築は、世界標準のサイケデリック療法を日本の患者に届けるための戦略的な取り組みです。

世界的には、Lykos TherapeuticsのMDMA治療薬承認拒否という挫折もありましたが、Compass PathwaysのCOMP360をはじめとする複数の有望な候補薬が臨床試験の最終段階に進んでいます。これらの開発動向は、サイケデリック療法が従来の精神医療の限界を打破する新たな治療選択肢として確立されつつあることを示しています。

大塚製薬の参入により、日本における精神医療の選択肢が大幅に拡大し、治療抵抗性うつ病やPTSDなどの難治性疾患に苦しむ患者にとって希望の光となることが期待されます。同社の戦略的投資と産学連携の取り組みは、日本がサイケデリック医療の後進国から先進国へと変貌を遂げる重要な契機となるでしょう。

大塚製薬株式会社. (2025). 学校法人慶應義塾と共同研究契約を締結‐精神展開剤の社会実装に向けた基盤整備のための産学連携. Retrieved from https://www.otsuka.co.jp/company/newsreleases/2025/20250508_1.html

本記事は情報提供のみを目的としており、医療アドバイスではありません。
精神的・身体的な問題を抱えている方は、必ず医療専門家にご相談ください。
また、日本国内でのサイケデリック物質の所持・使用は法律で禁止されています。

この記事を書いた人
Yusuke

米国リベラルアーツカレッジを2020年心理学専攻で卒業。大手戦略コンサルティングファームにて製薬メーカーの営業・マーケティング戦略立案に従事するなかで、従来の保険医療の限界を実感。この経験を通じて、より根本的な心身のケアアプローチの必要性を確信し、現在はオレゴン州認定プログラムInnerTrekにてサイケデリック・ファシリテーターの養成講座を受講中(2025年資格取得予定)。

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