イタリアのサイケデリック療法|埋もれた歴史と公的医療という切り札

歴史・文化

「効かない」とされた重いうつに、ある小さな分子が新たな希望をもたらそうとしています。実はイタリアは1930年代からその研究を始めた先駆国であり、その事実を半世紀近く忘れてきました。本記事では、イタリアが封印してきたサイケデリック療法の歴史と、公的医療への導入をめぐる現在の動きを、初めての方にもわかりやすく紹介します。

イタリアのサイケデリック復興:埋もれた歴史が導く「公的医療」という選択肢

イタリアのサイケデリック運動が今、静かに、しかし確実に動き出しています。この国には二つの顔があります。ひとつは1930年代から臨床研究を積み重ねてきた先駆者としての顔、もうひとつはその功績を長らく忘れ去ってきた国としての顔です。

なぜ今、この動きが注目に値するのでしょうか。理由は、イタリアが他国にはない「切り札」を握っているからです。それは公的医療制度、つまり国が運営する医療の仕組みです。アメリカではサイケデリック療法が高額な自費診療になりつつありますが、イタリアには税金で支えられる医療の受け皿があります。

たとえるなら、同じ薬を届けるにも「一部の富裕層だけが買える会員制クリニック」で提供するのか、「誰もがアクセスできる公立病院」で提供するのかという、根本的な分かれ道に立っているのです。この記事では、忘れられた歴史をたどりながら、イタリアがどんな未来を選ぼうとしているのかを見ていきます。

忘れられた先駆者たち:1930〜60年代イタリアの臨床研究

近年になって、イタリアのサイケデリックの歴史を掘り起こす研究者たちが現れ、驚くべき事実が明らかになってきました。

この分野の記憶をもっとも粘り強く発掘してきたのが、研究者のジョルジョ・サモリーニです。彼の調査によれば、1930年から1967年にかけて、イタリア各地の精神科施設で少なくとも60もの臨床研究がおこなわれ、約900人の患者に2,800回を超える治療セッションが実施されていました。使われたのはメスカリン、LSD、そしてシロシビン(キノコに含まれる成分)などです。しかもその成果のほとんどは国際的な学術誌に載ることなく、アーカイブの奥に眠ったまま忘れられてしまいました。

世界初の高用量LSD、南イタリアの病院で

歴史的な「世界初」も、この地から生まれています。1949年、南イタリアのレッチェにある精神科病院で、院長のウンベルト・デ・ジャコモが、人間に対して500マイクログラムというLSDを投与しました。これは当時、誰も試したことのない量でした。参考までに、この記録が塗り替えられるのは、ずっと後年になってからのアメリカ陸軍の実験を待つことになります。

サモリーニによれば、イタリアはシロシビンを使った臨床研究でも同時代の先駆国のひとつであり、うつ状態の治療でとりわけ有望な結果を残していたといいます。つまりイタリアは、世界がようやく注目し始めた領域を、半世紀以上前にすでに歩いていたのです。

映画監督フェリーニと、一度きりのセッション

科学の歴史が映画の歴史と交差する、印象的なエピソードもあります。LSDがまだ合法だった1964年の夏、精神分析の草分けであるエミリオ・セルヴァディオが、患者であった映画監督フェデリコ・フェリーニのために、医師の監督のもとで一度だけのLSDセッションを導きました。

セルヴァディオ本人によれば、この体験はフェリーニのその後の作品に直接影響を与え、映画『魂のジュリエッタ』の誕生につながったといいます。フェリーニ自身も当時のインタビューでこの体験を語っていたため、厳密には秘密ではありませんでした。それでも長年、映画好きと一部の研究者だけが知るささやかな逸話にとどまり、世界的な再注目とともにようやく光が当たり始めたのです。

こうした先進的な試みの背景には、精神科病院そのものを問い直す大きな社会運動もありました。同じ時代のイタリアでは、精神科医フランコ・バザーリアが、患者を閉じ込める旧来の精神病院を解体していく急進的な改革を進めていたのです。薬だけで心の苦しみを片づけることはできない——サイケデリック研究とバザーリアの改革は、方向性こそ違えど、この共通の直感を分かち合っていました。

もうひとつ、現在の運動につながる重要な流れがあります。それが「ハーム・リダクション」の伝統です。ハーム・リダクションとは、物質を使う人を罰したり無理やり病人扱いしたりするのではなく、被害をできるだけ小さくしながら支える、という考え方を指します。イタリアではこの実践がヨーロッパでも有数の厚みを持って根づいてきました。興味深いのは、彼らが臨床試験よりずっと前から、体験の質が本人の心理状態と環境に左右されることを経験的に知っていた点です。つまり、後にサイケデリック療法の要とされる「セットとセッティング」の発想を、現場が先取りしていたのです。

現在のエコシステム:学会・団体・ポッドキャストが築く土壌

過去の記憶が眠るあいだも、時代は動いていました。そして今、イタリアでは新しい「生態系(エコシステム)」がかたちを取りつつあります。

まず土台を整えたのが、学術界での動きです。2024年11月、トレント大学が国際的なサイケデリック研究者を招いた学会を開催しました。これはイタリアの大学が主催する初めての本格的なサイケデリック学会であり、長年この分野を覆っていた「学問上のタブー」を象徴的に打ち破る出来事でした。登壇者には、非営利研究団体MAPSを1985年に創設したリック・ドブリンや、インペリアル・カレッジ・ロンドンのサイケデリック研究センターに所属するデヴィッド・エリツォーらが名を連ねています。

団体の設立も相次いでいます。この分野の主な担い手には以下のようなものがあります。

  • SIMEPSI(イタリア・サイケデリック医療学会)は、研究・トレーニング・臨床応用を専門にするイタリア初の学術団体で、欧州の政策ネットワークとも連携しながら情報発信を続けています。
  • MAPS Italiaは、世界でもっとも歴史の長いサイケデリック研究団体MAPSのイタリア支部として2023年に設立され、精神医療のあり方を制度レベルから変えようと働きかけています。
  • ルカ・コッショーニ協会は、もともと人権や終末期医療に取り組んできた市民団体で、近年はサイケデリック療法へと活動を広げ、170人を超える臨床家や研究者が署名した政府への公開要望も後押ししました。

さらに、200回を超える配信を続けるポッドキャストや、専門家が国際的な研究を平易に紹介するニュースレターも生まれ、一般の人々が正しい情報に触れられる回路が育っています。

この動きは国境も越えつつあります。2025年、欧州議会でサイケデリック支援心理療法に関する初の「欧州市民イニシアチブ」が立ち上がり、17か国30以上の団体が参加しました。イタリアからも複数の団体が名を連ねています。欧州市民イニシアチブとは、一定数の署名を集めることで欧州委員会に政策の検討を求められる、市民発の仕組みです。署名の目標数には届きませんでしたが、そもそも達成が難しい制度であり、むしろ国境を越えた連携がここで初めて生まれたことに大きな意味があります。イタリアは、この署名運動でヨーロッパでも屈指の活発さを見せました。

最前線は「人を育てること」

エコシステムが広がるなかで、もっとも急がれているのがファシリテーターのトレーニングです。ファシリテーターとは、意識が大きく変化する体験に寄り添い、その後の日常への統合まで支える案内役のことです。

なぜ人材育成が最重要なのでしょうか。サイケデリック療法の効果は、薬だけでなく、それを支える人間関係や安全な環境に大きく左右されるからです。薬を渡せば終わりではなく、体験の前後を丁寧に伴走できる専門家がいて初めて、この療法は力を発揮します。実際、2026年秋にはMAPS Italiaが、MAPS本部の40年分の臨床研究に基づくトレーニングをイタリアで初めて開催する予定です。

キエーティの臨床試験:本物の研究とメディアの落とし穴

2025年7月、イタリアで初となるシロシビンの臨床試験がキエーティで始まりました。これは大きな前進であると同時に、サイケデリック研究をどう社会に伝えるかという難題を浮き彫りにしました。

この試験は、治療抵抗性うつ病(複数の薬を試しても改善しない、重いうつ病)を抱える68人の患者を対象に、国の研究機関の監督のもと、フランチェスカ・ゾラットを責任者として進められています。臨床はキエーティ・ペスカーラ大学のジョヴァンニ・マルティノッティ教授のもとでおこなわれ、パンデミック後の国家復興計画からの資金で支えられています。研究としては申し分のない体制です。

ところが問題が起きました。2025年5月、あるテレビ番組が、この試験の様子を約20分にわたって放送したのです。撮影クルーが治療の部屋に入り込み、シロシビンの影響下にある患者の映像がSNSでも広く拡散されました。

なぜこれが深刻なのでしょうか。ここで鍵になるのが「セットとセッティング」という考え方です。これはサイケデリック療法の土台をなす概念で、「セット」は本人の心の状態、「セッティング」は体験がおこなわれる環境を指します。静かで安全な環境が、体験の質そのものを決めるのです。つまり、テレビクルーが部屋にいること自体が、療法が依存している環境を根本から壊してしまう可能性があります。ジュネーヴでサイケデリック療法を実践する精神科医は、この撮影を「粗雑だ」と厳しく批判しました。

この一件が示したのは、研究そのものよりも「伝え方」の難しさです。国際的な科学の合意は、はっきりしてきています。すなわち、もっともよい結果は、薬の投与を「準備・セッション・統合」という構造化された道筋のなかに組み込んだときに得られる、ということです。薬はミサイルのように的へ撃ち込めば効くものではなく、丁寧な前後のケアと一体になって初めて意味を持つのです。

公的医療という切り札:アメリカモデルとの違い

ここまでの流れを踏まえると、イタリアが直面している本当の選択が見えてきます。それは「このすぐれた治療を、誰のものにするのか」という問いです。

比較の対象になるのがアメリカです。オレゴンやコロラドといったアメリカの一部の州では、規制された市場をつくる方向で道が開かれてきました。それは成果を生む一方で、ゆがみも伴っています。1回のセッションに数千ドルもかかり、お金を払える人だけがアクセスできる——サイケデリック療法が「エリートのための、閉ざされた、私有化された」ものになりかねない、とMAPS創設者のリック・ドブリンも警鐘を鳴らしています。

一方、イタリアやヨーロッパにはアメリカにないものがあります。それが公的医療制度です。もしサイケデリック療法が私的な市場ではなく公的な制度を通して医療に組み込まれれば、「誰でも受けられるか」という問題を、後回しの課題ではなく、仕組みそのものとして解決できます。

なぜサイケデリックは「マスク」ではなく「解放」なのか

そもそもサイケデリックは、従来の薬とどう違うのでしょうか。ここを理解すると、この療法が特別視される理由が腑に落ちます。

多くの精神科の薬は、症状という表面を覆い隠す「マスク」のように働くと批判されることがあります。これに対してサイケデリックは、脳の働き方を一時的に大きく変える点が異なります。鍵になるのが「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」という脳のネットワークです。これは、私たちの思考を自動的に整理する司令塔のような役割を担っています。うつの状態では、この司令塔が過剰に働き、同じ後ろ向きの考えをぐるぐると反すう(繰り返し)させてしまいます。

インペリアル・カレッジ・ロンドンの研究者トンマーゾ・バルバらの説明によれば、シロシビンなどの影響下では、このDMNが一時的にゆるみます。作家オルダス・ハクスリーが「減量バルブ」と呼んだものが、少しだけ開くイメージです。これは患者を朦朧とさせることではなく、安全な環境のもとで、自分の思考パターンという「檻」からひととき解き放つことを意味します。神経可塑性(脳が新しいつながりをつくり直す力)が高まる、この短い窓のあいだに、記憶を捉え直したり、凝り固まった自分との関係を組み替えたりできるのです。

もちろん、この「開かれた状態」には現実のリスクもあり、だからこそ管理された環境が欠かせません。国がこの治療を支えるということは、単に薬を配ることではなく、人が自分自身と向き合い直す過程そのものを支えることを意味します。

ここには、見過ごせない社会的な含みがあります。サイケデリック療法は、症状を一時的に抑えるだけでなく、その人の価値観や自分との関係を組み替えていく可能性を持っています。だからこそ、これを公的医療に組み込むかどうかは、単なる医療政策の問題にとどまりません。人の自律や、ものごとを自分の頭で考える力にまで関わる、より大きな問いなのです。イタリアがこの問いにどう答えるかは、日本を含む他の公的医療を持つ国々にとっても、貴重な先行事例になるはずです。

まとめ:記憶を取り戻し、誰のための医療かを問う

イタリアのサイケデリック運動は、まだ若く、多様で、しばしばばらばらです。統一された法制度の戦略も、安定した制度的パートナーも、十分な資源も欠いています。それでも、この国には確かな財産があります。科学的にも政治的にも落とし穴を知り抜いた、有能で意欲的な人々のネットワークです。

イタリアは1930年代から半世紀近くもサイケデリック研究の先端を歩みながら、その記憶を封印してきました。今、学会・団体・ポッドキャストが土台を築き、初の臨床試験も始まり、運動は無視できない規模へと育っています。そして最大の論点は、この治療を公的医療に組み込み、重いうつや心的外傷後ストレスに苦しむ人々に届けるのか、それとも支払える人だけのものにしてしまうのか、という選択です。

かつてイタリアは、自分が知っていたことを忘れました。今、それを思い出し、これから築くものを患者みんなのために活かすのか、一部の人だけのものにするのかを、決めようとしています。歴史を掘り起こす作業は、単なる懐古ではありません。よりよい未来を選ぶための、確かな足場なのです。

Today, P. (2026, July 3). A country that recalls its own forgetting. Psychedelics Today. https://psychedelicstoday.com/2026/06/29/italy-psychedelic-research-history-policy/

本記事は情報提供のみを目的としており、医療アドバイスではありません。
精神的・身体的な問題を抱えている方は、必ず医療専門家にご相談ください。
また、日本国内でのサイケデリック物質の所持・使用は法律で禁止されています。

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この記事を書いた人
ユウスケ

米国リベラルアーツカレッジを2020年心理学専攻で卒業。大手戦略コンサルティングファームにて製薬メーカーの営業・マーケティング戦略立案に従事するなかで、従来の保険医療の限界を実感。この経験を通じて、より根本的な心身のケアアプローチの必要性を確信し、サイケデリック医療を学ぶ。InnerTrekにてオレゴン州認定サイケデリック・ファシリテーター養成プログラム修了(Cohort 4)。

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